きょう(2月21日)から新宿伊勢丹本店 6階「時の場」ではじまった「366日の花ずかん」の展示のために東京へ行ってきました。
きのう(2月20日)の夜から東京へ入り、2時間ほど設営をし夕食。ひさしぶりに見た東京の景色はありとあらゆるブランドやお店、そして商品(モノやサービス)が以前にも増してひしめきあっているような、そして少し、余白がなくて窮屈であるような、そんな印象を受けました。
きょうは展示の初日ということと少し準備し足りていないところがあったので、朝から伊勢丹に行ったのですが、そこでたまたま芸術家の草間彌生さんの版画展が開催されていました。準備を終えたあと、なぜか吸い寄せられるようにそこへ向かいました。
その独創的な構図や色彩感覚もさることながら、一番感じたのは作品から感じるその圧倒的なエネルギーでした。
一つひとつの作品からほとばしるような、狂おしいほどの生へのエネルギー。それは平和や愛といった人として普遍のテーマについての作者の想いであるのかもしれません。
私の勝手な推測ではあるのですが、おそらく草間彌生さんにとっては創作こそが「生きる」ということなのではないか、そう感じるほどの強いエネルギーでした。
版画ではあるものの、作品の価格は数百万、数千万円の値がつくものばかり。私は芸術のことは造詣が深くないため、なにゆえにそれだけの値がついているのか正しく理解できていませんが、私なりに思ったのは、これは草間彌生さんというアーティストの創作にまつわるものすべてを「お金」という手段で受け継いでいるのではないか。そう感じました。
制作に費やされた膨大なエネルギーや時間はもちろん、創作への責任の重さやその根本をなす思想、いままで作者が生きてきた重みや苦悩まで。そういった全てのものを「作品」として受け継ぐための価格なのではないか。私はそんな風に思いました(当然ながら草間さんは言わずと知れた世界的な芸術家なので、その価値である、と言われればそこまでなのですが)。
ただ良い商品を作るだけでは売れない時代になってきました。
「良くて当たりまえ」のモノやサービスがそこらじゅうにありふれている今の時代は、この二日間で見た東京の景色と重なって見えます。
そんな中で「これは他とは違うね」とその存在を認められ、そこにあることをはっきりと示すためには、芸術家が自分のすべてを捧げて創作活動を行うように、自らの「作品」と呼べるレベルにまで商品づくりを昇華させるしかないのではないか。そんなふうに感じました。
ありふれたモノやサービスは、いくら上手くPRをしても、それ以上に伝わることはありません。
PRというものがその途方もなく大きな力を発揮するのは、「作品」と呼べるほどにまで考え抜かれ、磨き抜かれた企画があってこそなのではないか。草間さんの数々の作品を見て、改めてそう思うことができました。
こちらは去年の2月に国立新美術館で開催された草間彌生さんの個展の告知記事なのですが、草間彌生さんが歩んできた人生の一片が見えるような気がして、とても興味深いです。
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